みやざきの人生30年振り返り

 今日で生誕30年を迎えてしまったのと、BackSpaceKeyのアドベントカレンダーでたまたま空いてたので、節目の日にざっとだが我が人生30年を振り返ってみたいと思う。

 

・30年前の今日

 

 神奈川県川崎市のとある病院で生まれる。親に聞いた話だと武蔵小杉駅から程近いところだったのだとか。

幼少期はとにかく記憶がろくに残っていないのだが、生まれて数年は宮崎台駅(HNの由来となった駅)近く、親が務めていた会社の社宅に住んでいたことは覚えている。

 

・鉄道との出会い

 

 僕にとってなくてはならない、もはやアイデンティティともいえる鉄道という趣味。その出会いも実はあまり覚えていない。

微かに覚えているのは、やはり宮崎台駅近くで親に連れられて電車を見に行ってたことくらい。

その時に見ていた電車は、今の人生ひいては趣味においても大変重要な要素になっていると思う。

また、当時「電車とバスの博物館」は高津駅にあり、こちらにも度々連れてってもらってたように記憶している。

この他、電車の走行音にも多大な興味があり、電車に乗る際はモーター付きの車両を自分から好んで乗るくらいだ。

当時の最寄だった東急田園都市線の宮崎台駅(住んでいた当時の写真ではない)
当時の最寄だった東急田園都市線の宮崎台駅(住んでいた当時の写真ではない)
当時見ていた車両その1、東急8500系。この車両は前線から引退してしまった今でもなお一番好きな車種となっている。
当時見ていた車両その1、東急8500系。この車両は前線から引退してしまった今でもなお一番好きな車種となっている。
当時見ていた車両その2、メトロ(営団)8000系。上の8500系ほどではないが、この車種もよく見慣れた。
当時見ていた車両その2、メトロ(営団)8000系。上の8500系ほどではないが、この車種もよく見慣れた。
こんな変わり種もいた。当時見ていた車両その3、東急2000系。少数派故見る機会は少なかったが、派手なインバータ音は今もなお耳に残り続けている。
こんな変わり種もいた。当時見ていた車両その3、東急2000系。少数派故見る機会は少なかったが、派手なインバータ音は今もなお耳に残り続けている。

 これ以降、鉄道に関しては母方の祖父によくあっちこっち連れてってもらった。おかげで鉄道趣味の視野も広がったように思う。

・北海道、函館との出会い

 

 第2の故郷となっているこちらの関係にも触れておく。

元々函館は父親の出身地でもあり、祖父・祖母がいたことも相まって、幼少期から行く機会がかなり多かった。

また、函館には路面電車が走っており、こちらも自分の鉄道趣味においてやはり影響を与えている。

…その一方で、JRにはあまり乗る機会に恵まれなかったな…(ドラえもん列車やSL函館大沼号に乗ったりはしたものの)。

函館。この都市も幼少期から行きまくっていたおかげで、第2の故郷といっても過言じゃないくらいにはなっている。
函館。この都市も幼少期から行きまくっていたおかげで、第2の故郷といっても過言じゃないくらいにはなっている。

函館市電。ぶっちゃけ函館に行ってなかったら路面電車というジャンルにも興味を持つことはなかったのかもしれない。

 

・生まれて数年後、宮崎台駅付近との別れ

 

 さて、実は宮崎台駅付近の社宅生活はそこまで長続きはしなかった。

母方の実家の団地が空くことになり、そちらへ引っ越すことになったためだ。

こちらも記憶がおぼろげなのだが、だいたい3歳くらいと記憶している。

これにより、東急田園都市線沿線民だったのが小田急線沿線民へと変化した。

ただし住所は神奈川県川崎市から東京都へ移動しているのだが、場所が川崎市近くだったため、実質そんなに変わってないと思う(多分)。

確か社宅で生活していたころは、自分以外にももう2人ほど幼馴染がいたっけ。

転々としているこんな僕にも一応幼馴染の概念はあった(ただし、これ以降各々がバラバラになってしまったように思う)。

実はこの団地生活が今の自分の人生の中で一番長く住んでいた場所なのではないかと思う。

 

・妹の誕生

 

 僕が生まれて5年後(厳密にはまだ丸5年は経過していない)に妹が生まれる。

とはいっても「妹」だし僕と同じ趣味を持ったわけでもないし、今現在関係は疎遠なのであまり語らないでおこうと思う。というか語ることがあんまない。

 

・小学生時代

 

 最初の2年間は2つあるうちの1つの学校へ通っていたのだが、3年生になると同時に2つの小学校が統合、1つの学校となり、そちらへ通うことになった。

全体的な小学生時代は…まぁ、あまり明るいとは言えなかったかな…。いじめとかあったしね…(ボソッ

 

・鉄道模型との出会い

 

 だいたい小4の頃。母方の祖父が元々鉄道模型を持っていたのもあり、年になったからと母方の祖父(祖母)より、プラレールから鉄道模型への転身を推し進められる(というか強制?)。

その後、プラレールに一時的に戻ったりすることはあったものの、今現在は鉄道模型をやり続けている。

 

そんなこんなで、朝はご飯1杯だけ(おかずなし)、ゲーム1時間制限されたり、引き続き祖父にあちこち連れてってもらったり、夏休みに函館へ行ったりと、なんやかんや生活していたのだが、小学5年生の頃に大きな変化が訪れる。

 

・惜別 ~母、病死~

 

 生まれて丸10年が経過した年の5月、母が病死してしまったのだった。

これを機にこれまでの生活はほぼ一変。函館から祖母が応援で来てくれたりしてたっけ。

父もこれまでは仕事で常にいない、家にいてもその時間はゲームをしているようなイメージしかなかったのだが、この辺で一気に変わったように思う。

ぶっちゃけゲームやりたい放題じゃんって思ったのは内緒だ

 

 

 ちなみにこの時母は30代後半だった。

…母が病死した年齢に自分の年齢が刻一刻と迫っている、という現実は恐ろしさと無常を感じずにはいられない…。

割と長生きできないかもしれないな、俺…

 

・VRM、そして自分用PCとの出会い

 

 その1年後くらい、確か小6。母方の叔父が買ってきてくれた鉄道模型シミュレーター(通称VRM、以後こちらで書いていく)に初めて触れることになった。

ここからPC上の仮想空間にのめりこんでいくことになる(当時は狭い家ということもあり、自宅で模型を広げるためのスペースがあまりなかった)。

そのちょい後、今度はそのVRMを自分でやるための自分用PCを、やはり母方の叔父から買ってもらったのだった(なおノートPCなのであまり満足にやれなかった記憶、ちなみにDELL製だったと記憶している)。

ちなみに、その当時から拡張欲があり、VRMのパッケージをあれよあれよと買い揃えて行ったり、自分で作り方がないかなどを模索したりもした。

 

・BVE、そしてカメラとの出会い

 

 そんな自分用PCを手に入れ、ネットも繋いだある日、ネットを徘徊していたらBVEという運転シミュレーションのフリーソフトがあることを知り、早速のめりこんでいくことになった。

片っ端から路線データを落としていき、一通り運転した後はやはり自分で作りたくなってしまうのだった。

当時の最寄路線だった小田急多摩線に目を付け、この路線から試験的に作ることを模索し始め、実際に行動に移したりもした。

この際、親から初めてカメラを使わせてもらうことになった。他、録音機も使い、BVE路線を作る手はずを整えていった。

これは数年に渡って続くことになるのだが、結局自作路線が日の目を見ることはなかったのだった………。

 

 

・RailSimとの出会い

 

 さて、先ほどのBVEの路線を探しては落として入れて運転するということを繰り返していたのだが、そんなある日に某氏のHPにたどり着いた。目的はもちろんBVE路線。しかしそれ以外にも取り扱っているコンテンツがあるようで、好奇心でクリックしてみたら今度はこのHPのメインコンテンツにもなっているRailSimというフリーソフトに出会うこととなった。

BVEで路線を作り続ける傍ら、このRailSimも逐一遊ぶようになった。 

RailSimで遊ぶようになった1年後には早速自分でデータ(RailSimではPIと表記している)を作るようになる。

僕が作ったPIに関してはこちらのページに時系列順でまとめてあるので、興味のある方は見てほしい。

そうこうしているうちに次なる大きな変化が訪れる。 

 

・茨城県神栖市へ引っ越し

 

 中学校へ進学し、中2になる直前。親が転勤になるという名目(だったと思う)で茨城へ引っ越すことに。一応いじめから遠ざけさせる意図もあったらしい

ちなみにこの場所が個人的にもかなり曰くつきな場所で、近くに好きな電車が走っていない(走ってても旅客最寄路線は1時間に1本あるかないか、ちなみに真の最寄路線は貨物線だった)、治安が悪い、東京まで高速バスで1時間半もかかるなど、今まで住んできた中で一番嫌いな場所だった。現にここにいた時は早く東京へ戻りたくて仕方なかったように記憶している。

ちなみに、それまで住んでいた団地は、将来的に戻ることを想定し、僕(と妹)が所有するということになった。

 

・初関西

 

 当時のデータが残ってないのでさらっと触れる。

初関西は中3の修学旅行。1日目は東京駅まで高速バスで行き、東京駅から新大阪駅まで新幹線、そしてUSJへ電車を乗り継いでいった。

2日目はUSJから大阪へ、大阪から新快速(多分)で京都。3日目は京都駅から東京駅まで新幹線、という旅程だった。

元々血縁に関東より西の人間がいなく(母方は名古屋や博多で住んでいたことがあったらしい)、西へ行くことがこの当時皆無だった自分にとって、関西で見た電車はどれも強い刺激となったのだった(の割にJRしか乗ってないが)。

 

 また、関西とは関係ないが、新潟も2008年秋ごろまで行く機会はやはりなかった(まぁこちらはさしてそこまで刺激はなかったが、とある電車を見かけて好きになったことはあった、この車種の詳細はRailSimのPIに関してまとめたページで触れている)。

これもまた関西とは関係ないが、この頃になってようやく北海道への移動を鉄道メインに切り替え始める(これ以前は飛行機でしか移動しなかった)。

新幹線と在来線特急(白鳥だったかな)、さらには北斗星(これが僕の人生で唯一のブルトレ)など…。

 

 やがて高校へ進学し、家が新築になるなど、着々と茨城が基盤となりつつある中、早いところ東京へ出たい思いを高めながら、嫌々茨城生活をしていたのだが、そんなある日に例の出来事が起こる。

 

・東日本大震災

 

 みなさんご存じ、あの地震である。

あの地震当日、僕はとある学校へ見学しに行っており(後に通いだす専門学校とはまた別)、神栖にはいなかった。

その学校で解散しようとしていた時に地震が起こった。この帰りがなかなか地獄だった。道路の信号機は軒並み点いていないので帰る時間が往路よりやたらかかってしまった。

帰ってからも地獄で、停電により何もできない状態に陥った。

築数か月だった新築実家も、地盤沈下で真ん中からパックリ割れかけたとか。

あの地震からしばらくは落ち着かない生活が続いていたように思う(当時は計画停電だとか言って停電するしないとか言ってたし)。

 

 それからちょっとして落ち着きを取り戻したある日、親父が「あの時の記憶を風化させないために毎週土曜(違うかもしれない)の夜9時以降は停電させるから」とかいう頓珍漢なことを言い出す(ちなみにこの時の停電(ブレーカーを落としただけ)が原因で自分用DELL製ノートPCがいよいよ起動しなくなる、直後に叔父に頼んでまたPCを買ってもらった)など、茨城から出たいという思いを積み重ねていくかのように怨恨をどんどん溜め込んでいった。

今思えば、あの頃が一番グレてたなぁ。

 

・某黒歴史物語

 

 確かこの時期くらいだったと思う、プラレールを使ったある動画シリーズを作っていたことがあった(ここまで言うと一部の人以外概ね分かられそうだが)。

ある意味直前まで一般公開するか否か決めかねていたものだったが…今思えばそれももう後悔でしかない。公開して後悔。

 

・独り立ち、さらば茨城県神栖市

 

 そうこうして高校を卒業後、僕は直ちに茨城県神栖市を離れた。

そして前述した団地に一人戻ってきた。今度は専門学校に通うためという名目で。

しばらくはネットがない環境だったが、数か月後にやっとネット環境を手にするも、そこでも後悔する羽目に…。主に某黒歴史物語で

恥ずかしながら、実は青春18きっぷやムーンライトながらの存在は専門学校に入ってから知ったもの。

謎に京阪8030系を目当てに出張ってみたり、中部方面に初めて行ったり(厳密には、学校行事で行ったのが初)。

 ここまでほぼ文章だらけになってしまったのでたまに写真も載せつつ。

ちなみに、いわゆるオフ会も専門学校生になってから経験したもの。まぁ当然といえば当然だがそれまでネット上の誰かと会うということがなかった。

 

 そんなこんなで専門学校での2年もあっという間に過ぎ、気づけばもう20歳、成人といえる年齢になってしまった。成人といえば、そう…。

 

・就職、そして愛知へ

 

 就職である。前職の派遣に、専門学校の取りまとめで正社員として入社。

入るや否やいきなり愛知へ飛ばされ、泣く泣く所有する団地を離れることに…。

 

 派遣先1社目はお世辞にもあまり良い労働環境だったとは言えたものではなかった。

加えて長年関東にいた身としては、やはり早く関東へ帰りたくて仕方がなかった

結局ここでは長続きせず、就職して2年弱で自分から申し出る形で愛知から関東への帰投を決めるのだった。

愛知にいて良かったと思える点は、強いて言えば関西へ少し出やすくなったことくらいだったと思う。

 

・関東への帰投 そして川越へ

 

 関東へ帰投、派遣先2社目はまぁまぁ良い感じだったかな。なんだかんだ3年はやってたんだし。

…それとは別で、関東への帰投直後、ちょっとしたミスによりPCが壊れてしまうトラブルが発生。

すぐさま数万程度のPCを購入し、しばらくはそれで凌ぐことに。その後、ちょっと経ってからやっとまともなPCを購入。

これもRailSimのPIのまとめページに書いてあることなのでさらっと流そうと思う。気になる人はこちらへ

この頃が20代の黄金期といえる時期だったような気がする。行く場所も増え、もはやライフワークになっているRailSimのPI制作(趣味なので”ワーク”とは違うのだが…)が一番捗っていた時期でもあった。

 中でも2017年は自分でも気が狂ってたんじゃないか?って思うくらいには遠征に行きまくっていた時期だ。

とりわけ印象的なのは12月、サンライズ初乗車からの四国上陸を決めた遠征。バースデーきっぷを使っての遠征はあまりにも破格過ぎた…。もう1回使いたい

また、川越在住末期頃より、知り合いが中部方面で運転会を開催するようになり、僕自身も度々参加するようになっていった。この時ばかりはそのまま愛知住まいのほうが良かったと思ったのは内緒

 

・今度は太田へ

 

 そうして川越で生活していたのだが、派遣先2社目が減産を理由に辞めることになってしまった。

派遣先3社目は太田(群馬)とのことだったので、都心へ1時間、往復1000円未満で行ける好立地で満足していた川越よりも不便になることを悟った僕は、この時に一旦退職を考え出す。

しかし、派遣元から今よりも条件が良くなることを告げられ、これを飲むことにした。今思えばこれでも全然底辺だったんだよな…

派遣先3社目では、自分にしては珍しく良好な人間関係を築けているように思う。これが後の決断に繋がるのだが。

反面、生活面では川越にいた時ではギリ自転車なしでもやっていけたものの(一応川越でも自転車を使ったことはあった)、太田では基本自転車なしでは移動に不便をきたしてしまうため、自分用の自転車を購入した。

 

 

PC方面では太田に引っ越した年の8月に新しいPCを購入、今はサブノートとして使っている。

 一方の鉄道方面では、2020年に初めて九州にも踏み込んだ。

なお、九州方面の遠征は、2年後にも同様の遠征を実行している。

 

 

 しかし、派遣での薄給は着実に自分自身を蝕んでいた…。

いくら2社目より条件は良いとはいえ、どれだけ残業・休出をしても手取りが20万を超えることはなく、ちょっとでもへまをやらかすとすぐに生活バランスが崩れてしまう。

オマケに当時住んでいたレオパレスの住環境が悪く、隣の物音が聞こえ(なんなら声すら聞こえた)、光熱費も高いことが多かった。

特に2022年7月の電気代は一人暮らしでありながら1万円を超える非常事態となり、現状維持はもうできないという懸念をより強くした。なんならもうこの次の夏を超すことすらできないんじゃないかとすら思い始めた。それくらいこの生活にはもううんざりしていた。

 

・そして決心

 

 今年になってより決心を固めた僕は、いよいよ転職へ向けて動き出すことにした。

検討を重ねた結果、派遣先3社目の期間社員への転身を決めることにし、今の段階ではまだ手元に留めてある団地への帰投はしない方向とした。

そしてレオパレス、派遣との決別、団地から一部家具の持ち込みをして、新居で今度は期間社員としての生活を始めた。

手取りの額は前職派遣よりは増えたが、結局家賃などで差し引かれてほぼどっこいどっこい。

だが電気代は確実にレオパよりも安くなった。契約アンペアの差らしい(レオパは一人向けなのに40Aだった。なんで?)。

今年の夏、一番危惧していた7月でも1万どころか8000円も行かなかった。それでもまぁ結構使ってる方だろうが。レオパだと夏以外でも5000円を割ることはなかったので、それを考えたら安くなったと実感できる。

 

 鉄道方面では依然遠征を抑え気味なのでそこまで飛躍できてない(北海道で札幌方面の遠征をしたくらい?)が、一方でPC方面では大きな変化があった。

10月に今の会社からの臨時収入があり、そのおかげで新しいPCを購入できた。

新メインPC、通称お面くん(左)。右は従来のメインノートだったPC。
新メインPC、通称お面くん(左)。右は従来のメインノートだったPC。

 実はPCに関しては、この1年前からかねてより新調したいと思っていたのだが、前職の薄給により購入資金が捻出できなかった。

結果的に1年遅れる形になってしまったが、新メインとしてようやく購入できた。太田に来た年に購入したPCはサブノートに転用という形にした。

この臨時収入ではほかにも、鉄道模型の購入にも利用した。税金の支払いも含め、欲しいものは手に入ったので満足だ。

 

・これからの人生

 

 とまぁざっとと言いつつも長くなってしまったのでこれで終わりとしたい。

まずは目下の目標。今年中に派遣からの脱却と期間社員への転身という目標は済んでいるので、今度は来年ないしは再来年に正社員になるという目標だ。”期間社員”なので働ける年数が決まっているので、それまでに今度は期間社員の脱却を図りたい。まぁできなかったら太田を離れ、今持ってる団地に戻るつもりなのだが。

そう、ここでどう動けるかが団地の処遇にも結び付くと考えている。はっきり言って今の団地も結構金銭面では負担となっているのも事実だ。ここで正社員になってしまえば最後、もう住むつもりもないので売り払いたいと考えている。建て替え計画もあるらしいので有耶無耶にはできない。住むなら住む。住まないなら売り払う。今後はこの考えで行きたい。

 

 とまぁ結構ガチガチなことを言ってるが、結局は今後の人生においても、自分が楽しく過ごせたら、それでいいかな。

もう30年も生きてしまっていることに実感すら湧かないが、以後も鉄道を愛し、作りたいものを作っていく、そんな人生にしていきたい。

 

終わり 

 2023.12.01 みやざき

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

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